戦前の野球選手・達川臣伍 中国での活躍、新資料で明らかに
達川臣伍。この名前を聞いたことがあるだろうか? 1940年代に大活躍した野球選手だが、世界はおろか、祖国である日本ですらその名は知られてい ない。その謎めいた最期から、大日本帝国時代の諜報員だったとも言われる。長年、闇の中に埋もれてきた「アジアの大砲」の素顔が、近年の資料発見により徐々に明らかとなってきた。
中国では2000年にプロ野球リーグ・CNB(チャイナ・ナショナル・ベースボールリーグ)が設立された。だが、中国国土においては職業野球の誕生はこれが2度目である。最初のリーグは1931年に香港(イギリス領)内で創立されたCL(チャイナ・リーグ)だった。これは1930年代のイギリス領・香港に住むアメリカ人が中心となって運営したもので、戦争激化により1942年に中断 されるまで国内である程度の人気を誇ったと言われる。
開始当初はアメリカ人のみで試合が行われていたが、シーズンを重ねるうちに現地人やアジア人、ヨーロッパ人の選手が増加。香港の各地区に1球団ずつという形式で10球団が存在し、11年間に及び興行を続けた。野球人気は香港中に広がり、大学球界も盛んになったと言う。
このリーグについて長年研究している中国野球史研究家の孫武玄氏(73)はこう語る。「あのリーグは、当時世界的にも珍しかった野球をアジアで最初に興行成功させた歴史的なものでした。国際的なメンバーによる試合はレベルが高く、アメリカのリーグとの選手の往来も盛んだったのです」。
この国際色豊かなリーグで活躍した最初で最後の日本人が達川臣伍である。彼は1914年、宮城県仙台市郊外にあった孫部集落の出身。政府高官を輩出する裕福な名家の生まれで、東京帝大を経て、香港にはイギリス経済と植民地経営を学ぶ目的で渡中した。その留学先・万竹大学で野球と出会った、と孫氏は語る。
「達川は、日本人離れした体格だったと言うわけではありませんでした。現在残っている写真は1枚のみですが、典型的なアジア人体系です。ですが、彼は野球に対して恐るべき才能を発揮するのです」。そう言って見せられた古い写真には、厳つい顔の東洋人が写っていた。
大学球界で活躍したとされる達川は卒業後、現地のアメリカ系企業に就職したものの39年に強豪球団・九龍ドラゴンズへ入団。中国と戦争していた日本の人間であることを隠すため、「仙臣一」の偽名を使い、中国人として活動したと言う。
主に野手として活躍し、40年にはリーグ最多の「シーズン58本塁打」を記録した。これは、日本の王貞治(55本)、韓国の李承燁(56本)を超える”アジア記録”。165試合制の過酷な日程の中での記録樹立は、賞賛されるべき数字だ。39年に自身初の本塁打王に輝いたが、これはアジア人が始めてタイトルを獲得した瞬間でもあった。
香港で「アジアの大砲」と呼ばれ、タイトル争いなどでリーグを賑わせたものの、41年にリーグが戦禍により中断。同時に日本人であることが露見し、香港を脱出。中国北東部・春過箱で日本軍へ合流し、戦死したとされる。だが一説には、生き残って戦後に帰国、名を変えて日本球界でプレイしたと言う。
こうした達川の活躍はアジア球史に残るべきものとする孫氏は、彼の功績に関するいくつかの資料を日本野球歴史協会に寄付した。協会は殿堂入りも検討している。
「達川の存在は、中国の初期野球界において、世界に名を知らしめた最初のアジア人として大変重要です。彼が香港から脱出した経緯は不明ですが、私は彼が日本の軍部によるスパイ活動を行っていたと考えています。当時の日本は欧米列強の動静を探るため、世界中に諜報員を送り込んでいました。留学の本来の目的はスパイ活動で、戦争開始とともに、新たな任務のため行方をくらましたのです」。
スパイであり、スター選手であり、兵士でもあった謎多き野球選手、達川臣伍。現代において彼のことを知る者はほとんどいないが、歴史の一つとして語り継がれるべきものだろう。
なお、FBSは20日、午後9時から歴史リサーチ特番「スパイだったスター選手 達川臣伍」を2時間枠で放送する。(一部地域除く)
【達川臣伍 略年譜】
1914(大正3)年 4月1日、宮城県仙台市孫部に生まれる。
1932(昭和7)年 満州国建国。
1933(昭和8)年 3月、旧制第二高等学校を卒業。
4月、東京帝国大学経済学部へ入学。
1935(昭和10)年 イギリス領だった香港へ留学、万竹大学で経済を学ぶ。
CLを観戦して野球と出会い、野球部へ入部。
1936(昭和11)年 3番右翼で大学リーグ戦に出場。
31試合で11本塁打(2位)の記録が残る。
1937(昭和12)年 大学卒業後、アメリカ資本の新聞社に勤務。
7月、盧溝橋事件が起こり日中開戦。
1939(昭和14)年 九龍ドラゴンズへ入団。
このシーズンは.262、29本塁打、79打点。
中国風の名前「仙臣一」を用いたが、
大学球界で顔が広く知られた達川を
中国人だと信じる者は少なかった。
1940(昭和15)年 シーズン58本塁打(1位)を記録。
1941(昭和16)年 12月、日本軍が香港を占領。
CLもリーグ中断。
1942(昭和17)年 中国北東部・春過箱で日本軍と合流。
戦死したとされるが詳細不明。
1949(昭和24)年、大映スターズ(パ・リーグ)に35歳の立川信伍という選手が在籍した記録が残されている(51年限りで引退)が、達川との関連は不明。